淳の酔狂日誌
2012年10月3日水曜日
政治の空白は埋められるか
批判はできるが創造がない。追及はできるが質問ができない。政局あって政策なしというジャーナリズムは性懲りもなく政局ばかりを報道する。この国民にこの政治、と政治を批判すれば天に唾することになりかねない、と知りつつ言わなければならない時に私たちは立たされているのだろう。
2011年3月20日日曜日
心配な流言飛語と過剰な自粛ムード
「ほうれん草と牛乳が汚染されているってよ」
「また~、そんなことを言う~」
「だって、テレビで言ってたよ」
これは日常的な茶の間での会話の一コマだ。
その後、報道や新聞等を読めば、一部で放射線が基準値を超えたものもあったようだが、直接的に人体に影響が出る程度ではなかった。
また、それは一部であり、福島県・茨城県の農産物や酪農製品がすべて汚染されていることを意味していない。
意味していないが、この報道を境に、この地域の農産物や酪農製品、食品加工品にいたる製品がキャンセルされたりスーパーの棚から撤去されたりしているのは事実である。
さらに、この地域以外の全く関係ないほうれん草までも売れなくなっているというから、風評被害の底知れぬ猛威に改めて恐怖を覚えた。
同じ報道でも視る人・聞く人・読む人によって、捉え方は間逆になることもある。報道に携わる人々はこの辺の事情を常に念頭において報道してほしい。困るのはワイドショー的な番組でコメンテーターの心無い一言などは十分にチェックしてほしい。
悪意をもって流言飛語を流す人はごく一部だろう。
問題なのは、何気ない一言が流言飛語の発端になったり、発信者になったりするのである。いわゆる風評被害につながる一言である。
流言飛語によって起こった象徴的な事件として、有名なのは「豊中信用金庫の取付け騒動」。
これは、豊中信用金庫に就職が決まった女子高校生に対してその友人が電車の中で言った不用意な、根拠のない一言だった。
「豊中信用金庫は危ないって言ってたわよ」
「流言飛語は賢者で止まる」
このデマは何度か賢者によって打ち消されたが、ある婦人の目の前で「ああ、豊中信用金庫さん?今日150万円おろしに行きます」
の一言が決定的なパニックの引き金になった。
今回のひどさは賢者であるべき報道が引き金となったことを肝に銘ずべきだろう。司令塔であるべき政治の責任も問題だろうが、報道関係は単に政府がしっかりしていないからだと責任転嫁するだけではあまりにも無責任である。
次に過剰な自粛ムードだ。
こちらも厄介な問題だ。各種のコンサートが中止になり、プロ野球もサッカーも自粛ムードに包まれている。三社祭も早々と中止を決めた。
甚大な被害を受けた被災者の気持ちを思えば、中止せざるを得ない。というのが主たる理由だが簡単に自粛してほしくない。
というのは、現在日本の経済はなかなか立ち直れず苦しい状況にある。そして今回の東日本の広い地域で深刻な災害を被った。さらに自粛によって経済の停滞を産み出してはならないと思う。一つの大きなイベントが中止されれば、小さな会社は倒産するかもしれない。職を失う人も多く生まれるに違いない。
このままでは、被災者を支援しなければならない側の体力がそがれ、支援どころではない状況に陥りかねない。
ただ、首都圏の場合は東北電力や東京電力管内の電力供給不足の問題を抱えているので、簡単な問題ではないが、知恵を出し合って乗り切り、これ以上自粛ムードが広がらないことを願うしかない。
そんな折、またしてもコメンテーターの何気ない一言が気になった。
思うように進まない避難生活者に、旅館やホテルも協力してはどうかという案を出し、
「いまどき旅行する人もいないだろうから・・・」というのである。聞きようによっては、いまどき旅行する人は不謹慎な人と取れなくもない。非常にメンタルになっている現況にあっては、不用意な一言が、「不謹慎」の大合唱を誘発する恐れがあることも心してほしい。
東北・太平洋沖大地震必死の復興作業
東日本の沿岸に広がる甚大な被害。
広範囲に目配せしながらの懸命の支援活動。
福島第一原発においては、被爆の恐怖に耐えながら、ぎりぎりの戦いをしている自衛隊、ハイパーレスキュー隊の皆様。そして、最悪の事態を回避するために原発施設内で全知全能を傾けて復旧作業をしている東電の技術者たち。そして送電システムの回復を目指して働く技術者たち。
彼らに敬意と感謝をしつつ何もできない自分にもどかしさと悔しさで涙が止まりません。
自分に何ができるか、今できることは何か・・・。もがきながら見守る自分。
皆さんかっこいいです。がんばって!
2011年3月18日金曜日
2011年3月12日土曜日
東北・太平洋沖大地震
2011年3月11日(金)14時46分、三陸沖を震源とする大地震が発生した。
今回の宮城沖大地震を被災した方々にお悔やみ申し上げます。
想像を超えた激甚の大災害となった。一日も早い復興に向けて、大変だろうが、助け合い励ましあって成し遂げていただきたい。
東京でも震度5弱を観測し、目と鼻の先の九段会館では天井の一部が落下し死者がでた。この程度でも私にとって経験したことのない揺れだったことを考えれば、直接被災地の方々の恐怖はいかばかりであったか。
特に津波はその猛威の前になすすべもない!といった感じだ。
これほどの被害になろうとは専門家ですら予測できなかったようだ。
ただ、警報の出し方に問題はなかったかと思う。
津波の怖さは波の高さだけではない。というよりその圧倒的な水量の多さとスピードだ。
そもそも波という表現は適切かどうかも問題だと考えていた。波といえば寄せては引く、という印象が強いと考える
たとえば、沖から1mの津波が押し寄せてきたとき、その津波は想像を超える水量をかかえて押し寄せてくるのだ。
この計り知れない水量が湾などに入ってきた場合、その高波はあっという間に数メートルを超え、一気に速度が落ちるので、後から来る圧倒的な水量がさらに波を高くするということだ。台風などの高波とは桁違いのエネルギーがある。
この津波の怖さを伝える場合、この水量の多さをどのように伝え、警報に活かせるかを考えることは大切なことだと思う。
これほどの被害をもたらした津波であったが、2月11日は小潮。潮位変化の少ない日であった。それにもかかわらずこれほどの被害が出た。もしこの日が大潮の日で満潮に重なればもっと大きな被害をもたらしたかもしれない。やはり沿岸の防災のあり方はもちろんだが、津波の恐ろしさを適切に知らせる警報の出し方も検討していただきたい。
2011年3月7日月曜日
前原外相辞任に思う
政治ネタは極力避けてきたが、なんとも腹の立つことばかり続いていやになる。
またもやつまらない理由で重要閣僚の一人でもある前原外相が辞任した。
国会で鬼の首を取ったような勢いで追求する議員を見ていて不快指数120%という感じだ。辞任した後も首相の任命責任を徹底追及する、という。何をかいわんやである。
追求する側にとっては、重箱の隅をつついて、一気に瀕死の菅内閣を解散に追い込もうということだろうが、あまりにもおそまつだ。
この問題は、いち政治家のスキャンダルとして追及するのではなく、別の視点で考えなければならない問題だ。
例えば、政治家の健全な政治活動を支える個人献金をインターネット献金も含めて如何に定着させようというとき、献金した個人が外国籍かどうかをチェックするなど到底不可能だ。チェックのために人員を増やして虎の子の献金をそちらの人件費に使うなどということにもなりかねない。
ましてや後でわかったといっていちいち辞任するようなことがあっては政治空白が広がるばかりだ。外資系企業からの企業献金の問題との整合性も問われるところだ。
マスコミの報道の仕方にも問題がある。「政局ではなく政策」などといいながら、延々と政局を報道する無神経さ。政策では視聴率が取れないが政局は視聴率が取れる、ということではないだろうか。また、ワイドショー番組やバラエティ番組で安直に政局を取り上げる。
政治を国民目線で解りやすく、という利点もあるだろうが、限られたコメンテーターが、検証なしに無責任なコメントを垂れ流す図もいただけない。
まあマスコミ批判も政治批判も天に唾することであり、有権者一人ひとりが賢くなっていかなければならないことではあるが・・・。
2011年3月2日水曜日
季節感を取り戻そう
3月に入って、そろそろ桜の便りが気になりだした。
千代田区は区花が桜。3月下旬から4月上旬、「千代田さくら祭り」が行われる。
千鳥が淵緑道では毎年ライトアップが行われ、皇居を望みながら幻想的な夜桜を楽しめる。
また、4月1日(金)~4月3日(日)は神田川~日本橋間の桜クルージング、4月4日(月)には国立劇場発の麹町お花見スカイバスが運行される。そのほかにも千代田区には桜スポットが多く、外濠公園、英国大使館、靖国神社、皇居東御苑などなど見所満載。
楽しみな季節を迎えるわけだが、ちょっと気になるコラムを見つけたので一言。
真っ先に咲く梅に続いて杏や桃、李が花開き、桜が暖かい春を彩る(2011年3月2日「名字の言」)
とくればどうも時系列が気になる。この表現をそのまま読むと梅が咲き、杏や桃が咲き、李が開き、そして最後に桜が咲くような印象を受けてしまわないか。
むろんこれらの花には昨今種類も豊富で早咲きや遅咲きがあり、一概に咲く順序が明確ではないが、桜と桃どちらが早く咲くの?
少しはなしはそれるが、三月三日はひな祭り、桃の節句と言われる日だが、これはもともと旧暦の行事で、西暦3月3日には桃の花は咲かない。
旧暦と西暦とでは、一ヵ月から一ヵ月半程度ずれるので、西暦にあわせれば、桃の節句は4月上旬から中旬となり、桃の開花に符合する。
昨今、都市化の波、温暖化に代表される異常気象、生活パターンの近代化などで、季節感が薄れているとも言われている。
しかし、桃の節句など伝統的な年中行事をそのまま西暦の日に置き換えて行われる傾向も日本人の繊細な季節感を乱しているのではないかと考え、読みすごすことはできず、一言申し上げた。
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